集合日時: 11月29日(金)8時55分
/浦和駅 上野東京ライン3番線ホーム前寄り
豊洲市場見学
今回は築地から引越し去年の10/11に開場しました豊洲市場の見学です。9月6日、新橋よりゆりかもめ線に乗り市場前駅下車10時半、総勢30名はまず連絡通路を通り青果棟を見学、2階のガラス張りの見学通路から見ると1階の青果卸場では作業している人は時間が遅く少なかったが思っていたより通路は広かった。来た通路を引き返し水産卸売場棟で早めの自由昼食。皆さん好きなものを食し、大きなクロマグロの模型の前で記念写真。水産仲卸売場棟に移動しエレベータで5Fの屋上緑化広場に上がる。フカフカした新しい芝生を心地よく歩き、眺望も良く東京湾や都内の高層ビル、そして目の前には選手村の高層マンションも眺めることもできた。階段を降りると魚がし横丁で買い物、休憩タイム。お店は時間が遅く半分以上は閉店していたがマグロを裁く包丁、玉子焼き等、珍しい物も売っていた。長いエスカレータを降り、見学終了で解散した。旧築地市場に比べ敷地面積1.7倍、床面積2.8倍、想像していた以上の大きさに驚いた。移転の際には様々な意見の違いや土壌汚染で問題になりましたが移転したことにより通路が広くターレ等が通り易く、作業効率、衛生面、いくつものメリットがあるように感じた。
庭園めぐりから神楽坂史行
今回は去年7月に雨の為中止になった庭園めぐりから神楽坂を再度史行することになりました。梅雨時であり今回も雨の心配をしましたが天気は曇り、7月5日9時40分、総勢20名は江戸川橋駅を出発。神田川沿いの遊歩道を歩き肥後細川庭園、ここは幕末に肥後熊本54万石の藩主細川家の下屋敷になり、その庭は池を中心に園内を回遊する池泉回遊式日本庭園。まずは細川家の学問所として使用されていた松聲閣の喫茶室で庭を眺めながら抹茶と和菓子をいただき、大きな池の周りを一周。池の背後の山並み、芝生、緑豊かな庭園は紅葉の時期も訪れたい。松尾芭蕉が4年間居住した関口芭蕉庵は大きな葉っぱのバショウがあり鬱蒼としていて自然な趣のある庭だった。近くの椿山荘の庭園は広さ東京ドームの2倍、起伏豊かな地形を巧みに生かし中央には大きな池、そしてひときわ目が引くのが小高い丘に建つ三重塔であり室町時代建立の古塔である。この塔をめざし羅漢石や七福神の石像や滝を見ながら趣のある橋を渡り急な階段を上り到着。束の間のミニハイキングを楽しんだ。暫く歩くと神楽坂の赤城神社、近代的な社殿は女性の願いを叶える女神さまが祀られていて良縁、安産等で女性に人気の神社との事。お詣りをして路地裏の石畳の小径を通り朱塗りの山門、本殿の善國寺に着く。このお寺は約400年前に徳川家康によって創建され毘沙門天が祀られている。善國寺の門前町として栄えた神楽坂は明治の頃から芸者がいるほど賑わっていたが新宿に人が流れていったので花柳界の名残りと石畳が残っており近くの食事処で昼食後は当時を想像しながら路地裏の石畳の小径を料亭、旅館の塀を横目に横丁を歩き飯田橋で解散した。
今年度の史行は全て都内にしました。今回は近場の板橋・赤塚。5月
10日9時35分、総勢25名は下赤塚駅を出発。高台にある松月院大堂は板橋そうだ。ちなみにこの丘は区内で最も古い寺院で平安朝期の創建で室町時代には七堂伽藍の大寺院だった古墳といわれている。すぐ近くに大堂を管理している松月院があり房総に勢力を持った千葉自胤(よりたね)が千葉の市川城から赤塚城に移り古寺を松月院と名を改め武蔵千葉氏の菩提寺とした。立派な山門を通ると広い境内には素晴らしく整った庭園、そして本堂、豊川稲荷があり、砲術師高島秋帆が洋式砲術訓練を行った時の本陣でもあった為、上空に向けたホイッスル型砲身の記念碑があった。高島平の地名は彼の名前に由来しているとの事。そしてメインの乗蓮寺(東京大仏)は板橋仲宿にあったが1973年に高速道路の建設の為、赤塚城二の丸があった現在の場所に移転し、4年後に東京大仏が建立された。徳川家康から十石の朱印地を寄進された為、葵の御紋が刻まれている山門をくぐり階段を上った先に本堂、右に青銅製の高さ12.5Mの東京大仏がある。奈良や鎌倉の大仏よりは小ぶりだが実際に見るとその大きさに驚かされる。他にもがまんの鬼、文殊菩薩等の石像が沢山あり見応えがあった。隣には赤塚植物園、入口では大きなユリノキの黄色い可憐な花に暫く見入った。中に入ると四季折々の花がありバラ等の花が咲いていた。赤塚溜池公園で昼食。隣の郷土資料館では板橋宿等の資料、旧石器時代の土器や外に出れば古民家等を見学、興味深いものがあった。赤塚氷川神社でお参りし成増駅で解散した。
少し汗ばむ陽気でしたが連休明けの爽やかな一日を楽しんだ。
横浜山手西洋館めぐりと総会
今回は開港とともに横浜の近代日本発展の歴史をたどる史行となりました。3月8日9時55分総勢26名は石川町駅を出発し急坂を登ると高台のイタリア山庭園(明治時代イタリア領事館が置かれたことからイタリア山と呼ばれた)に着き、移築された明治政府の外交官の家と外国人の住宅ブラフ18番館を見学、部屋には雛人形が飾られボランティア演奏家のピアノ演奏を聴きながらの見学、そして高台の為、大きく見える富士山に感動し急坂を登った疲れが飛んだ。明治時代、外国人居留地だった山手本通りの高級住宅街を歩くと山手カトリック教会、許可を貰い空いている時間5~6分での見学、中には聖母マリア像がありゴシック様式の高い尖塔は印象的だった。フェリス女学院を過ぎ元町公園ではベーリックホールは休館中だった。エリスマン邸はスイス人の貿易商エリスマンの私邸であった。斜め前には外国人向けの共同住宅山手234番館も見学。洋館でもある山手資料館は少し狭いが創建当時の家具やオルガン、ギヤマン等、歴史的な資料が充実していた。見晴らしの良い外国人墓地を見て港の見える丘公園。ここはイギリス、フランス両国の領事館邸があったところ。旧イギリス総領事公邸であるイギリス館、アメリカ人の邸宅であった山手111番館を見学。展望台で横浜港を見下ろしながら総会と昼食会場がある中華街へと向かう。総会は例年通りの予定で終わり、その後の親睦会も和やかに時間が流れ散会した。
前日まで雨が降っていたが天気にも恵まれ寒さの中にも暖かい日差しを感じながら明治から大正期の異国情緒が香る横浜を楽しんだ
平家落人湯西川温泉史行
今回は初めて一泊の平家落人湯西川温泉史行となりました。2月7日総勢18名はさいたま新都心駅前をホテルの送迎バスで出発。途中龍王峡で昼食、14時半に湯西川温泉のホテルに到着(一面は雪景色)、各自部屋で温泉に入ったりして一休み。湯西川は1185年源平の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人、平清盛の孫(重盛の子)忠房(後に忠実に改名)一族が縁戚の宇都宮氏を頼り関東に下った。そして川治の鶏頂山で山村生活をしていたが一族に男子が生まれ、残り布でのぼりを5月の空に上げたところ源氏方に見つかり一族は大敗して渓谷伝いに湯西川まで逃れ永住の地と定めた。その為、湯西川温泉ではいまだに鯉のぼりは上げないとの事。一休みした後は目的の一つである「かまくら祭」の会場である一面雪のなかの平家の里に6時過ぎに着く。門をくぐると、9棟の茅葺屋根の民家が点在し、道端には明るいぼんぼり、ミニかまくらが並び、所々に大きなかまくらがあり、幻想的な雰囲気の中、分祀された安徳天皇(わずか8歳で壇ノ浦の戦いで祖母の平清盛の妻時子と共に入水した)の菩提寺赤間神宮でお参りしホテルに戻った。夕食はバイキング、飲み放題のため皆さんお酒も進み和やかなうちにカラオケ室に行き短い時間であったが楽しんだ。翌日は朝食後、送迎バスにて帰路に着いた。
今回は平家の栄枯盛衰の歴史ロマンを感じさせられる史行となった。
小石川後楽園からニコライ堂史行
11月29日、朝起きると雨が降りそうなので心配しながら集合場所の水道橋駅に着くと青空が見えほっとしながら総勢26名は9時半に出発。小石川後楽園南の塀沿いの遊歩道を草花や紅葉を見ながら入口に着く。小石川後楽園は水戸徳川家の上屋敷を二代光圀が完成させた。隣の東京ドーム1.5倍の広さに琵琶湖を模した大泉水を中心に湖、山、川、田園などの景色が表現され、日が差す紅葉の中、山を登り、川を渡り小さな日本の景色を楽しみながら一周した。小石川後楽園北塀の黄葉されたイチョウ並木を楽しみながら20分程で文京ふるさと歴史館。館内には周辺に住んでいた樋口一葉ら文学者の資料や昔の扇風機、電話機等、本郷で弥生土器が発掘され、その展示物、土器のジグソーパズル等、興味深いものがあり、もう少し時間が欲しかった。次の本郷給水場公苑では、秋のバラ、そして紅葉の陽だまり中、昼食。20分程で平将門も祭神になっている江戸っ子の神社である神田神社(明神)。お参り、買い物した後は道を挟んで前にある湯島聖堂、正門を通ると右に巨大な孔子銅像に出会う、儒学好きの五代将軍綱吉が上野にあった林羅山の私塾に建てられた先聖殿(孔子廟)を湯島に移し間口20Mの立派な大成殿とした。その後、1797年昌平坂学問所が併設された。立派な建物、門に感動しながら2つの聖堂(湯島聖堂、ニコライ堂)を結ぶ聖橋を渡ると青銅色のドームがみえてくるニコライ堂である。ロシア人のニコライが1861年ロシア領事館の司祭として来日し、ニコライ大聖堂を建てた。ビザンチン様式の大聖堂の中に入るとドームの天井は高く荘厳な空間の中、担当者から説明があり、外観も異国情緒あふれていた。今回は都会の中の静寂さを感じながらの一日でした。
深谷史行
今年3月の雑司ヶ谷史行で飛鳥山の渋沢資料館で近代日本資本主義の礎を築いた渋沢栄一の偉大さ(多くの一流会社の設立に関わった)
に感動。そのルーツをたどり生誕地・深谷を史行することになりました。深谷といえばレンガとネギの町。9月7日9時10分総勢23名は東京駅のような赤レンガの駅、深谷駅を降りる。当初はネギ畑を見ながら栄一が造った日本煉瓦工場の引き込み線跡の遊歩道を歩き日本煉瓦(工場)資料館に行く予定でしたが資料館は平日閉館と距離の関係で中止、食事処のマイクロバスで旧渋沢邸(中の家)に着き、早速ガイドの話を聞く。ここは栄一の生家であり、代々農業を営んでおり、苗字、帯刀が許され裕福な家と聞いていたので、立派な門、豪華な和風の主屋、土蔵も4棟あり納得。裏庭の竹林から青淵公園を川伝いに行くと渋沢栄一記念館、北側の5メートルほどの右手に論語を持って利根川や赤城山を見て立っている栄一像を見ながら説明を受けた。そこから15分程で尾高惇忠生家、惇忠と栄一は従兄弟の関係であり栄一は惇忠から論語等多くの学問を師事し、若き頃は尊王攘夷思想に共鳴この二階で討論をしたらしい。後に惇忠の妹ちよと結婚。最後は栄一が創設した第一銀行の関係者が喜寿を祝って建築された「誠之堂」と「清風亭」。誠之堂の外観は英国農家、室内の装飾は中国等東洋的なものが多かった。「清風亭」はスペイン風の建物。どちらも煉瓦を巧みに使い、また宴会の様子を描いているなどステンドグラスには感動した。そして近くの食事処で昼食、メンバーの人のオカリナ演奏と12期校歌の合唱で締めくくり、マイクロバスで深谷駅に行き解散。
一部の人は深谷駅周辺の赤レンガづくりのレトロな街を楽しんだ。
城下町佐倉史行
新緑のこの時期、城下町佐倉を史行することになりました。
5月18日9時50分総勢21名は京成佐倉駅を降りるとお願いしていたボランティアガイドさんが待っていた。2班に分かれ佐倉城址公園めざし出発。
佐倉城は日本100名城に選ばれているが城郭等は残っていない。江戸時代初期江戸の東を守る要として徳川親藩老中土井利勝が築城、そして堀田正盛(春日局の義理の孫)以降代々堀田家が11万石の城主になり何人かは老中になった。その為、防衛拠点として地形を巧みに利用して水堀、空堀、土塁を築いて守りを固めた。その深さ、高さには驚いた。樹木や芝生が多く、緑多い公園を新緑の風を感じながら竹林の坂を上り武家屋敷へ向かう。3棟の武家屋敷が公開され300石、150石、90石の武家屋敷を見学、玄関の畳の数、縁の有無、屋敷の広さ等武士の格による違いを知ることができた。思ったより質素でこじんまりしていた。通りに面して築かれた塀は土塁の上に槇の木の生垣があり高くなっている。人が通りを馬で歩いても中を見えないようにするとの事。暫く歩き旧堀田邸、さくら庭園に着く、ここは最後の佐倉藩主堀田正倫が明治になって造った邸宅と庭園。今は一万坪の敷地に主屋5棟が伝統的な和風様式で建築され、去年行った松戸の戸定邸同様一枚板(柱)、欄間等贅沢に使い身分や格式を重んじた造りになっている。
明治に旧大名家の建築した純和風住宅は全国でもここと戸定邸、鹿児島の磯御殿(旧島津藩別邸)だけである。芝生のさくら庭園で集合写真を撮ったあと食事処で昼食後解散。武家の暮らしぶりを想像しながら新緑の城下町を楽しんだ。
大名庭園めぐり(目黒周辺)
今回は大名庭園の紅葉を楽しむ史行となりました。
11月30日10時、総勢22名は五反田駅を雨の心配をしながら出発。池田山の急坂を登り、皇后美智子様の生家である正田家の邸宅跡に造られた「ねむの木の庭」を散策、美智子様の思いを感じさせる穏やかな庭でした。暫く高級住宅街を歩き池田山公園、ここは旧岡山藩池田家の下屋敷だったところ。中に入ると一面紅葉で感動し集合写真。高低差のある公園で高台から見下ろせる池を中心とした回遊式庭園も素晴らしい眺めだった。お寺が並んでいる道を通り過ぎ東京都庭園美術館、ここの日本庭園の紅葉も素晴らしく、アール・デコ様式の建物と紅葉との調和も楽しむことができた。そして隣の国立自然教育園、ぱらぱら雨が降ってきたので管理棟で昼食。ここも旧高松藩の下屋敷跡で広大な庭園(6万坪)全体が天然記念物でもあり古代武蔵野の面影が残っている。雨も上がり、平安時代ここを支配していた土豪、白金長者の館の遺構や土塁等の史跡そして湿地や池の周りの花木や紅葉を見ながら、豊かな自然を落ち葉を踏みながら散策した。最後は八芳園(結婚式場もある)、ここも大久保彦左衛門の下屋敷、その後旧薩摩藩の下屋敷になった。予想通りここの紅葉も綺麗で池には大きな錦鯉が泳いでいて紅葉との景色も素晴らしかった。ここで解散し、希望者は目黒不動尊へ向かった。こんなに広い「東京のオアシス」があった事に驚き、思う存分紅葉狩りを楽しんだ一日でした。
高麗郷を史行する
高麗郷ということで曼珠沙華(彼岸花ともいう)の開花時期に合わせ9月22日10時20分、総勢17名は高麗駅を出発。時期ということで迷うことなく曼珠沙華の群生地である巾着田に着いた。一昨日は天皇、皇后両陛下が高麗神社と巾着田を訪れ、真っ赤に咲き誇った500万本の曼珠沙華に感動されていたとの事。皆さんも感動した様子。テント屋台が並んでいる「ふれあい広場」で早めの昼食。白い曼珠沙華が咲いている「あいあい橋」を渡ったところに高麗郷民俗資料館があり明治から昭和初期の生活用具、農機具等を見学し、高麗川沿いの遊歩道を川のせせらぎ聞きながら里山の小道に出て、キンモクセイの香り、コスモス等の花を見ながら聖天院に着く。奈良時代に朝鮮の高句麗が滅亡、その高句麗人が日本に渡来し、関東に散らばっていた高句麗人1,799人が716年にここ日高に集められ高麗郡として設置し、その初代郡司が若光であり、その高麗王若光の菩提寺が聖天院である。寺院は山にあり立派な二層の山門をくぐり急な石段を登り中門に入ると、手入れされた庭園があり、その横の石段を又登ると本堂、さすが100段の石段を登ったので本堂からの眺めは素晴らしい。そして5分程で高麗神社、ここの祭神にも高麗王若光が祀られている。参拝した後は休憩、社殿裏にある神社の神職の住宅であった高麗家住宅(江戸時代初期の建築)があり見学して高麗川駅めざし帰路に着く。
雨の心配をしながらの史行であったが曇り空のため、涼しく爽やかな秋を感じる1日でした。
松戸史行
今日は七夕、総勢20名は松戸の歴史と自然を訪ねる史行となり松戸駅を9時半出発。暫く歩き江戸川の堤防に出て15分位川沿いを歩き宝光院へ、ここは北辰一刀流を開いた千葉周作が若き日ここの門前に住み修行に励んでいたと伝えられている(周作父の墓がある)。そして5分位歩き松戸神社(主祭神は日本武尊)。松戸は江戸と水戸徳川家連絡の為に整備された水戸街道の千住宿そして2番目の宿場町として発展した。そのため松戸神社は水戸徳川家より崇拝を受け黄門(光圀)様も訪れたとの事。そして戸定が丘歴史公園、ここは水戸藩最後の藩主徳川昭武(兄は15将軍徳川慶喜)が建てた戸定邸の敷地内が公園として整備されている。戸定邸ではシティガイド2人が待っていた。戸定邸はさすが徳川家の屋敷、純和風で9棟が廊下で結ばれ23の部屋がありその広さ豪華さ、そして和と洋(芝生)の庭も素晴らしく感動した。そして隣接する千葉大園芸学部庭園ではイギリス風景式等の庭園を見学、木陰を歩きハイキング気分になりユリの木等珍しい花木にも出会えた。そして学食でガイドさんと共に遅めの昼食。連日の暑さで熱中症の心配をしていたがほどよい風が吹き松戸駅で無事解散できました。
その後、希望者数名が本土寺へ。アジサイ、五重の塔等を見ながらのんびりと一周してきた。
秋川渓谷を散策
今回は新緑の時期、秋川渓谷をハイキング気分で春を感じる史行となりました。
5月12日9時25分、総勢23名は武蔵五日市駅で降り戸倉までバスに乗り、まずは足利尊氏が創建と伝えられている光厳寺をめざし出発。周りは山々がある里山、急坂を上り10分位で光厳寺に到着。ウグイスの鳴き声に迎えられ都の天然記念物の幹回り5,3mの山桜を見に行くが時期外れのため葉桜(残念!)。趣のある山門をくぐり境内に、上ってきただけに見晴らしも良い、武蔵五日市七福神の布袋尊がありお詣りをして坂を下る、暫くは里山の綺麗な花木を見ながら歩き、多摩川の支流である秋川に架かる星竹橋を渡り、いよいよ秋川渓谷のせせらぎを聞きながらの散策となる。途中バーベキュー場があり小休止。暫く歩くと瀬音の湯に到着。ここで2時間の自由行動、食堂でそして外で弁当を食べる人、その後は温泉に入ったり、足湯で疲れた足を癒したり、そして周りを散策し新緑のすがすがしさを感じたり思い思いの時間を楽しんだ。そして小型バスの為、満員状態で武蔵五日市駅に到着。透明な水の流れのせせらぎ、程好く吹き抜ける風が何とも心地よく感じる1日でした。
回 | 実施予定月日 | 行き先 | ポイント |
第27回 | 5月12日 | 秋川渓谷 | 新緑 |
第28回 | 7月 7日 | 松戸・戸定が丘歴史公園 | 歴史公園(明治ロマン) |
第29回 | 9月22日 | 高麗郷(巾着田・高麗神社等) |
曼珠沙華 |
第30回 | 11月30日 |
目黒周辺の大名庭園巡り(池田山公園、 国立自然教育園、都立庭園美術館、八芳園) |
紅葉と自然観察 |
第31回 | 1月 5日 |
亀戸七福神めぐり |
七福神 |
第32回 | 3月30日 | 雑司ヶ谷周辺(護国寺、鬼子母神等) | 桜、総会 |
校友会活動、季節の花木等の状況で日程を変更することもあります
蕨宿と総会
今年度、最後の史行は隣町の中山道蕨宿。3月3日蕨駅西口9時20分集合、総勢26名はボランティアガイドと共に出発。ガイドさんから途中、蕨宿は周囲が掘で囲ってあり、下(江戸より)と上(京都より)に木戸があった事等の説明を聞き中山道に着く。明治の織物商人の木造平屋寄棟造りの家を蕨市立歴史民俗資料館分館として公開、手入れの行き届いた日本庭園を眺め、雛人形を見、珍しい白いタンポポも咲いていた。そして近くの本館では蕨宿町並みの模型、沿道びっしりと家が並んでおり、当時の賑やかさが想像できる。次の蕨本陣跡では皇女和宮や沢山の大名が宿泊された記録が展示され、蕨宿は荒川が増水時の川止めに備える為、珍しく本陣が2つあった。そして、煎餅屋でお茶と煎餅で小休止。少し歩き三学院の立派な山門、仁王門を潜ると境内に左は三重塔、右は三つの地蔵尊(子育て地蔵、六地蔵、目疾地蔵)、正面は立派な本堂、他にも仏舎利塔等があり三学院の三学とは戒学、定学、彗学を学ぶ仏教修行の教育機関であり格式の高さが感じられる。最後は和楽備神社、蕨城址を見学し、蕨駅前のお店で総会を開催、その後、親睦会に移り和やかなうちに時間がながれ散会した。
天気にも恵まれ、寒さの中にも少しずつ春の暖かい日差しが感じられるような一日でした。
日本橋七福神巡りと新年会
今年は短時間で巡拝できる日本橋七福神巡りです。1月6日浦和駅8時時30分集合、総勢28名はのるところ秋の日差しの中総勢28名は川越駅を出発しました。樹齢6ボランティアガイドが待つ人形町駅に向かう。2つの班に分かれ出発。最初は椙森神社(恵比寿神)、創建が一千年前と古い神社で江戸時代宝くじの元祖といわれる富くじ興行を偲んで建てられた富塚をなでて祈願。強運厄除けの小綱神社(福禄寿)。大名堀田家の中屋敷に丸く刈り込まれた茶の木の所にあった茶の木神社(布袋尊)。そして安産、子授で有名な水天宮(弁財天)は改築したばかりで木の香りがするほど綺麗になっていた。昔、松の茂った島だった所に14柱と沢山の神様が祀られている松島神社(大国神)。元吉原の守り神だった末広神社(毘沙門天)。そして最後は大名牧野家が国元にある日本三大稲荷のひとつ笠間稲荷神社を江戸下屋敷に御分霊した笠間稲荷神社(寿老人)と巡拝した。途中、明治座等も案内して頂いた。
この辺は江戸時代、大名の屋敷がありその屋敷の守り神がそのまま七福神になったものも多い。人形町周辺は人形を作る、操る人等の職人や芝居(歌舞伎)の町として賑あい発展した。その為、親子丼の玉ひで等老舗が多くその一つの豆腐料理店へ向かい新年会を開催、和やかなうちにほろ酔い気分で帰路に着いた。好天にも恵まれ甘酒横丁、人形焼等、江戸下町の情緒あふれる都心を楽しんだ。
芝・増上寺周辺
今回は芝、徳川家の菩提寺増上寺周辺の史行となりました。
7月1日総勢19名は浜松町駅9時半集合。芝といえば増上寺と東京タワーでしょう。
まずはメインの増上寺。三門をくぐり本堂である立派な大殿をお詣り、独特な雰囲気の水子供養、千躰地蔵群を横目に徳川将軍家墓所に向かう。徳川将軍家には増上寺と上野の寛永寺と二つの菩提寺があり、増上寺には将軍の秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂、そして皇女和宮ら正室、側室が埋葬されている。家康は日光東照宮、家光は日光輪王寺、他の将軍は寛永寺に墓所がある。各将軍の墓所宝塔は立派で、夫婦揃っているのは秀忠と崇源院(織田信長妹お市の三姉妹の末娘お江)、家宣と天英院、家茂と和宮だけだった。そして宝物展示室に行き、特に家光によって造営された父秀忠の御霊屋「台徳院殿霊廟」の模型は当時の壮大な建物群が想像でき感動した。
その後、近くの東京タワーで自由行動、食事と見学等で思い思いの時間を楽しんだ。次はNHK放送博物館へ、ここで初めての放送が開始された。8Kスーパ―ハイビジョンの視聴等楽しい体験もした。すぐ隣の標高26メートル(愛宕山)の上にある愛宕神社でお詣り。愛宕神社は火事の多かった江戸に徳川家康の命により防火の神様として祀られた。下りは急坂と急階段に分かれて降り、新橋駅へと向かい解散した。
千歳烏山寺町めぐり
5月20日、新緑の美しい小京都を求めて総勢22名は千歳烏山駅9時半集合、寺町へと向かった。千歳烏山の寺町は関東大震災で東京下町が焼けてしまったのでその地域のお寺が引っ越してできた町だという。現在26のお寺が集まっている。お寺は全部まわることはできなかったが、まずは速水御舟など日本画家のお墓がある妙高寺、そして中央自動車道を渡ると寺町通りが続き、両側に寺が並んでいる。築地塀をめぐらした山門のある西蓮寺から敷地に弁天池があり鴨の飛来地である世田谷百景の一つ高源院までを寺散策。中でも妙寿寺は特に印象に残った。立派な山門をくぐり木立の多い鬱蒼とした境内は都会いることを忘れさせる。又旧鍋島家から移築された客殿は立派であった。他のお寺も由緒あるお寺で浮世絵師喜多川歌麿など有名な人達の墓かあった。そして小京都の風情を漂う街並みを後に緑深い玉川上水沿いを新緑の風を感じながら暫く歩き、神田川沿い経由で井の頭公園に到着。池近くの木陰で池を見ながら昼食。園内を散策後、賑やかな商店街を通り吉祥寺駅解散。
新緑の頃、色々なお寺の庭を見ながらの一日はまさしく京都に行った気分でした。
年度末の3月31日、春を求めての史行となった。幸い天気にも恵まれ総勢30名は浦和駅8時集合、三溪園へと向かった。最寄のバス停を降り、ほぼ満開に近い桜並木の住宅街を歩き正門入口に着くとボランティアガイドさんが待っていた。3つの班に分かれ1時間の予定で園内を案内して頂いた。ここは明治初期に生糸貿易で財を成した原三溪(本名富太郎)が広大な土地を自然の地形をそのまま生かし、三重塔など歴史的に価値が高い建造物17棟を京都や鎌倉から収集、移築され風雅な趣のある位置に配置された別荘庭園である。徳川吉宗が幼少時に遊んでいたと思われる紀州徳川家の別荘臨春閣等を説明して頂きましたが時間切れとなり全部は回りきれなかった。しかし1時間半の滞在は桜、シャガ、コブシ等の花に囲まれ、古建築を見ながらの日本庭園巡りは素晴らしかった。今度はゆっくりと紅葉の三溪園を訪れたい。
そしてバスに乗り中華街へ。会員の紹介のお店で昼食、ご厚意で紹興酒のサービスもあり皆さん和やかに会食を楽しんだ。総会も予定通り終わり山下公園へ。飛び交うカモメ、停泊する船を見ながら大さん橋に向かった。運よく大型客船が停泊していたので間近に見ることができた。そして明治を感じさせる赤レンガ倉庫の前を通り桜木町駅で解散。
少し行程がきつい所もあったが爽やかな春を感じさせる1日でした。
今年の初史行は、明治神宮へ初詣。
1月8日原宿駅に着いた24名は駅前を1時前に出発。
さすがファッションの街原宿、駅前は竹下通りを目指す若者や初詣に行く人々で溢れていた。
神宮橋を渡ると目の前に鬱蒼とした森が口を開けるように待っていた。
南参道の第一鳥居を一礼してくぐり参道を左に折れると高さ12mの日本一の木造大鳥居に出た。右折して手水舎で手や口を清め、皆さん本殿で神妙な面持ちで参拝。
昨日はここで三横綱の奉納土俵入りを行ったとの事。
明治神宮は明治天皇・昭憲皇太后を御祭神とする神宮として設営されました。
元は大名彦根藩・井伊家の下屋敷があった場所だが、この地は森のない荒地であったため本多静六博士等の100年後を見据えた計画で全国から10万本以上の樹木が献納された人工林です。
今現在、東京ドームが15個分、想像以上に広く東京を代表する癒しの森となったのもうなずける。
そして少し戻り花菖蒲田で有名な明治神宮御苑に入苑、曲折した小径を歩き、南池では沢山の鯉が泳ぎ、ヤマガラ等の小鳥を身近に見、さえずりを聞きながら、加藤清正が掘ったと伝えられる「清正の井」に着く、都会では珍しい湧水の井戸であり、井戸の水面が上にある木々を写真のようにはっきり映し出していた。
御苑を出て全国の酒造会社から献納された清酒の菰樽が陳列されている前を通ると皆さん知っている清酒、埼玉の清酒を探していた。
その後、南浦和で新年会を開催。皆さんお酒も進み楽しく和やかなうちに時間が進み散会した。
今年最後の史行は紅葉の北鎌倉となりました。
12月4日、総勢26名は北鎌倉駅を9時出発。
今回は禅宗(臨済宗)で格式が高い鎌倉五山のうち一位の建長寺と二位の円覚寺とアジサイの寺明月院を巡ります。まずは駅前の円覚寺、総門を入り緩やかな階段を上ると荘厳な山門が現れ、さらに奥に進むと仏殿、舎利殿等、歴史的価値のある建物、仏像等が縦長に奥まって在り、これは禅宗の寺の特徴らしい。川端康成の「千羽鶴」等多くの文学作品の舞台になっているのもうなずける。
そして線路際を少し歩き、明月院へ本堂には「悟りの窓」と呼ばれる丸い窓を通して本堂裏の庭園を観ることができ皆さん写真を撮ったり、可愛いリスとの出会いもあり楽しんでいた。
朝が早かったので早めの昼食、精進料理を食し、隣の建長寺へ。
ここも円覚寺と同様、重厚感の在る三門を入り法堂等が縦長に奥まって在り、一番奥はカラス天狗の出迎えで245段の急階段を上り半僧坊へ、シニアには厳しかったが上がった先の境内からは富士山や相模湾が眺望でき感動。
今回は天気にも恵まれ紅葉も鮮やかで初冬の柔らかな日差しを浴びながら鎌倉らしさを感じる史行でした。
3月に中山道板橋宿を史行し、少し宿場町の事を理解ところで今回は日光街道第二の宿駅草加宿史行となった。
9月4日草加駅東口9時50分、総勢25名はボランティアガイドさんと2つの班に分かれ出発。旧日光街道沿いに歩き、まずは巨大な雄と雌の獅子がある八幡神社、そして明治時代の建物で町屋建築として貴重な藤代家、道路元標、県内初の鉄筋コンクリート2階建て校舎の歴史民俗資料館と明治の匂いがするところが多く残っていた。
少し先に進み左に入ると東福寺があり山門、鐘楼、本堂は江戸時代の建物で全てに彫刻が施され素晴らしかった。
鐘楼のそばには三葉松があり枯葉をお守りにすると良いことがあるそうなので1つ頂いて持ち帰った。
そして草加松原、望楼、芭蕉等の句碑の説明を聞きトイレ休憩、投句箱があり思い思いの一句を投函した。
そこは綾瀬川に沿って634本(ムサシ)の松並木があり百代橋まで説明を受け、ボランティアガイドさんに感謝して別れた。
奥の細道の芭蕉はこの松並木を通り千住方面を振り返りながら、これからの長旅に覚悟しつつ旅立っていたのだろう。
その後、天ぷら屋さんで大木さんのオカリナ演奏等を楽しみながら昼食。
そして草加といえば煎餅。煎餅の手焼き体験に向かう。
1人2枚、表、裏を返しながらお好みで焼き上げ、焼き立ての煎餅を食べて楽しんだ。
草加史行
史楽会の麗(うるわ)しいみなさんこんにちは。
9月の楽(たの)しい史行は、暑苦(あつくる)しい埼玉県の、懐(なつ)かしい草加です。
草加は嬉(うれ)しい日光街道の素晴(すば)らしい宿場でした。
草加松原は、当時から優(やさ)しい松並木です。
かなしい江戸時代から、「草加松原」「千本松原」などと呼ばれ、微笑(ほほえ)ましい日光街道の疾(やま)しい名所となっていました。
「奥の細道」には「・・・その日やうやう草加といふ宿にたどり着(つ)きにけり」と書かれています。
あの松尾芭蕉も、美(うつく)しい奥州へのおぞましい旅で草加を歩いているんです。
芭蕉も歩いた美味(おい)しい松並木は、今でも「日本の恥(は)ずかしい道百選」などに選ばれ、国の華々(はなばな)しい名勝に指定されています。
さて、草加と言えばすぐに思い浮かぶのが「草加せんべい」です。
おせんさんという猛々(たけだけ)しいおばあさんが騒々(そうぞう)しいだんごを平たく伸ばして、焼いて売り出したという憎(にく)い説が知られています。
憎々(にくにく)しい今日は、初々(ういうい)しいみなさんも、せんべいの手焼きというかったるい体験をし、苦々(にがにが)しいおせんさんという神々(こうごう)しいおばあさんになった眠(ねむ)い気分を味わっていただくのが、古めかしい史楽会のふてぶてしい趣向なのです。
たまには、このような体験型の世話(せわ)しない史行というのはいかがでしょうか?
以上、馬鹿(ばか)ばかしい虫食い挨拶でした。
梅雨どきの7月3日、心配していた雨に見舞われ今回は傘をさしながらの史行となった。
総勢20名は立川駅を出発。
まずは諏訪神社を目指し歩くとやがて緑豊かな諏訪の森公園そして諏訪神社が見えてくる。
薄暗い木立の参道を抜けると立派なそして綺麗な社殿、社殿前は広くすっきり整備され風格のある古社の佇まいを感じさせる神社であった。
5分ほど歩き八幡神社跡の大欅は樹齢700年、周囲6mと見応えがあった。
そして普済寺、この地方で勢力をふるっていた立川氏の菩提寺であり山門を通り立派な本堂前で記念写真。
そしてそこからはしばらく根川緑道を歩く。
小川が流れるせせらぎの音を聞きながら鯉やカモ、アオサギとの出会いで、雨の中を歩きながらも心が癒された。
最後は柴崎体育館から多摩モノレールで関東三大不動のひとつ高幡不動尊。
開運そば屋で和やかに昼食をとり、そば屋を出ると雨も小降りになり高幡不動尊では各自アジサイを見る人、そして大日堂では泣り龍等を見学する人と思い思いに楽しんでいた。
今回は雨の史行でしたので少し早めの解散となりました。
今年度最初の史行は新緑の秩父路です。
天気にも恵まれ5月1日10時、総勢32名は横瀬駅を羊山公園めざし出発。
途中日本の原風景を感じさせるような里山を春の花木を見ながら羊山公園に到着。
芝桜の丘に上がると広大な敷地一面に白とピンクの芝桜がバランスよく配置され、秩父のシンボル武甲山とのツーショットは素晴らしかった。
そこで早めの昼食(自由行動)、思い思いの場所で芝桜等を楽しんだ。
そして、ここからがミステリーの札所巡り。皆さんに巡る札所案内を配り出発。
芝桜の丘から急坂を下りまずは12番野坂寺、羊山の新緑を背に山門、本堂は古寺の長い歴史を感じさせる立派な札所らしいお寺だった。
次は15番少林寺、満開のボタンの花に囲まれ小休止。
そして踏切を渡り秩父神社は広い境内、立派な社殿、特に「つなぎの龍」等、左甚五郎の彫刻が素晴らしかった。
暫く歩くと14番今宮坊、近くの今宮神社の樹齢千年以上の大欅(樹周9M)は見応えがあった。
最後は名前の通り目の守り本尊としても有名な13番慈眼寺。
ツツジ、ボタン、フジ等の花との出会い、そして新緑の風を感じながらの史行でした。
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