江戸庶民のエコロジー

長屋

江戸時代中期以降、江戸の人口は百万人と推定されています。半分は武士、半分は町人でしたが、町人の居住面積は全体のわずか六%しかなく、町人に限れば、大変な人口過密でした。

この人口の大部分を収容したのが、いわゆる裏長屋です。

表通りから横丁に入り込むと裏長屋。標準的な大きさは、一棟の長屋を六軒に区切り、一軒は、間口九尺(二・七㍍)、奥行き二軒半(四・五㍍)。入り口にかまどなどを置いた土間があり、座敷は四畳半だけ。隣との境は板壁一枚ですから、夫婦げんかなどは筒抜けです。井戸も便所も共同。今の人にすれば、耐えられないような住宅環境でしょう。その代わり、家賃は月に四百文くらい。日雇いの日当が最低でも三百文くらいですから、働き口さえあれば住んでいられたのです。

 

住人には自然に共同体意識が生まれ、必要な時には助け合い、かといって過度に干渉することもなく、一定の節度を持って暮らしていました。ペットの鳴き声で裁判まで起きる現代のマンションと比べて、どちらが住みよいか、住宅の規模や設備などだけでは論じられないでしょう。

 

リサイクル

古道具屋や古着屋は今でもありますが、江戸時代は徹底したリサイクル社会で、種々の物買いが街を歩いていました。

和紙は簡単に漉き返せますから、古紙再生は当たり前で、最後はトイレットペーパーになるのは現在と同じです。しかし、一度使ったトイレの紙もまたリサイクルしたといいますから驚きです。貴重品の金物類を、川底やゴミ捨て場から拾う「よなげ屋」という仕事もありました。

古傘買いは、紙を貼り直して安く売るのですが、古い傘の油紙は味噌、漬け物、魚肉などの包装紙になりました。古椀買いは、漆を塗り直して売りました。逆に見れば、そうした再生品しか買えないような人々がたくさんいたということでしょう。

すり減った下駄は、最後には燃料になります。そのかまどの灰まで買い集める人がいました。木の灰は上質のカリ肥料になるからです。

宿場などの街道筋では、馬糞も立派な肥料として拾われましたし、旅人のわらじも稲藁ですから、農民は田にすき込んで肥料にしました。

 

現在は、新品の方が安くつく物がたくさんあります。経済効果からいえば、仕方がないことなのでしょうが、資源は限りあるもの。江戸のリサイクル精神に学ぶことも多いのではないでしょうか。

 

修理屋

現代に比べて物資が非常に少なかった江戸時代は、各種の修理屋が町を歩き、たいていの物は直して大事に使いました。

鍋や釜を直す鋳掛け屋、煙管の部品の交換をする羅宇屋などは戦後までありましたが、江戸時代には、提灯の張り替え、算盤直し、下駄の歯入れ、雪駄直し、へっつい(かまど)直しなどが、道具を天秤棒に担いで注文を取り歩いていました。

割れた陶器を直す「焼き継ぎ屋」という商売もあり、このために瀬戸物屋がもうからなくなった、という記録が残されているほど繁盛したようです。

隅田川の花火の日に、樽や桶の修理をするたが屋が、過って竹のたがをはじかせ、武士の笠をはね飛ばしたことから、武士と立ち回りを演じるという、落語「たが屋」は、夏になるとよく高座に上ります。

 

現在は、まだ使えそうな物が粗大ゴミとして出されることが珍しくありません。捨てる理由はいろいろでしょうが、修理の難しい電子部品が多用されていること、何年かたつと修理部品の在庫がなくなってしまうことや、便利な新製品が次々と発表されることなどが原因になっているのでしょう。

 

 

ゴミ処理

江戸の町ができたころは、ゴミ捨てに制限はありませんでした。しかしそれでは町が汚れてしまうので、明暦元年(1655年)、ゴミを永代島に捨てることにし、後には、専門業者に委託して、定期的にゴミ回収船を回して積極的に埋め立てに使うようになりました。

長屋では、十軒から二十軒ごとにゴミ捨て場を設け、たまると堀まで運んで回収船に積みました。

このシステムは、埋め立ての場所が変わるだけで、幕末まで続きました。東京都など東京湾沿岸の自治体のゴミによる埋め立ても、このシステムをまねたものです。しかし、江戸時代と現在ではゴミの量がけた違いです。

江戸時代は物資が不足気味でしたので、金属、繊維、紙など再利用できる物は徹底的に回収しました。ゴミとして出されるのは本当に最後の最後まで残ったわずかな物だけでした。

 

これに対し現在は、何でも簡単に捨ててしまいがちです。プラスチックや特殊な新素材など、再生不能のゴミが多いのも問題です。ゴミを少なくする家庭の努力も必要ですが、捨てることも考えた商品開発やリサイクルの徹底が望まれています。

 

 

下水

パリの地下に大下水道ができたのは1740年、日本では江戸時代中期のことです。しかし、「パリの方が衛生的だった」というのは早計です。

当時のパリの下水には終末処理場がなく、生活排水も汚物もそのままセーヌ川に流されていたのです。しかもそのセーヌ川から飲料水も取っていました。

これに対し、日本の都市では、汚物を近郊の農家が金を出して買い、田や畑の肥料にしていました。代金を現物でもらうこともあり、滝沢馬琴は、家族の成人一人あたり年間に大根五十本、ナス五十個をもらっていたと日記に書いています。

どぶに流す生活排水は、米のとぎ汁やせっけんを使わない洗濯水くらいですし、流す水の量も水を大切に使うため少なく、川が汚れるようなことはなかったのです。

 

現在は、下肥はほとんど使いませんし、食用油や化学洗剤など、江戸時代にはなかった汚染源がたくさんあり、処理場のある下水でないと流せないのが実状です。今後、各家庭で水の汚れを少しでも減らす努力をしていかないと、いくら下水道を整備しても追いつかないかもしれません。

 

 

水道

江戸の長屋の井戸端会議、時代劇にもよく出てくる光景ですが、この井戸の大半が、実は地下水道だったと言ったら驚く人が多いのではないでしょうか。

海岸の湿地などを埋め立てて街づくりを進めた江戸は、井戸を掘ってもあまり水の出ない土地でした。そこで神田上水や玉川上水が造られ、江戸市民百万人の60%以上の飲み水を供給したのです。当時、世界の大都市で上水道があったのはロンドンだけで、しかも江戸に比べてずっと小規模のものでした。地上を流れる川から地下に引き込まれた江戸の上水は、地下の木製配水管の総延長が百五十㌔にも及び、規模としては世界最高のシステムだったのです。

支線の配水管には、三千六百ヵ所以上の「水道枡」と呼ばれる汲み取り場所が設けられました。これが、長屋の井戸です。

 

蛇口をひねれば水が出る現在の水道と比べれば不便なものですが、江戸の人々は、水道を大変自慢にしていました。ですから、上水として使われている川にゴミを捨てるなどということは厳しく戒め合っていたようです。きれいな川を誇りにする気持ちは、今でも見習いたいものです。

 

台所

江戸時代の台所には、かまどと簡単な流しぐらいしかなく、ガス、水道が完備し、冷蔵庫が必需品の今と比べると、みすぼらしいものでした。しかし、江戸の台所には、食べ物はこまめに買って残さないように食べきるなど、今も見習うべき合理性があります。

身欠きニシンやヒジキ、切り干し大根などの乾物は江戸時代からの伝統的な保存食品ですが、これらを時間をかけて戻し、おいしく食べる知恵は、冷蔵庫や防腐剤などなかったためです。塩漬けの魚は、保存食であると同時に、海から遠い所へ供給する手段でもありました。

働く主婦の増えた現在、食べ物をまとめて買い、冷蔵庫で保存するのは当たり前のことですが、冷蔵しなくても日持ちの良いジャガイモなどまで、なんでも冷蔵庫に入れ、詰め込みすぎで電気代がかさんだり、奥の方に入れた食品を忘れてかびを生やしてしまったりといった失敗はよく聞く話です。また、大量生産・消費のために、防腐剤などさまざまな添加物が健康の面から話題になっています。 

こまめで、むだのなかった江戸の台所に学ぶことはたくさんあるようです。

 

 

季節の食べもの

江戸時代の作物は、太陽の光と豊かな水に頼って栽培されていました。当然、青菜もナスも里芋もその季節にならなければ手に入りません。それに、輸送力も保存技術も今とは比べものになりませんから、豊かな東京湾の魚も、鮮魚で食べられたのは江戸城を中心としたごく狭い範囲のことでした。

そういう意味では、日本中どこでも、年中、好みのものをほとんど手に入れることのできる現在は、それなりに幸せでしょうが、そのために非常に大きなエネルギーを使っていることを忘れてはいけないでしょう。

近海の漁業資源はとりすぎで極端に細り、マグロ、エビなどを求めてアフリカ沖、大西洋にまで乗り出しているのが、現代の漁業。魚の値段は、漁船を動かす燃料の値段に左右されるのが現状です。

野菜にしても、「ハウス栽培でトマトを作ると、露地栽培の3・5倍のエネルギーを必要とする」そうです。 

食卓に季節感を取り戻したいものです。

 

買い物

「納豆、ナットー」「シジミーやシジミ」「とうふーぃ、豆腐」と、江戸の長屋の朝のは、いろいろな物売りの声で明けます。江戸時代の都市では、毎日、さまざまな行商人たちがやってきました。豆、たまご、梅干しなどは一年中、カツオ、アジ、里芋、大根など季節の食べ物はもちろん、七夕の竹、すだれ、月見のすすきなども、その時期になれば、売りに来ました。

大量生産・消費の現在は、少ししか物を運べない行商ではかえって高くついてしまう物が多いでしょうし、働く主婦にとっては、まとめ買いできるスーパーの方が便利なことは言うまでもありませんが、江戸時代の買い物は包装資材がほとんど要らなかった、という点は見直してもいいのではないでしょうか。

シジミは笊、豆腐は鍋に入れ、納豆も量ってどんぶりに入れてくれたのです。酒や油は徳利を下げて近所の店に行きました。現在のようなトレーもラップも要りません。 

最近、大手スーパーの中には手さげのポリ袋を回収するところも出て来ましたが、ひと昔前のように、買い物かごを持って行けば、初めからポリ袋は要らないのですが……。

 

 

暦と時刻

もうすぐカレンダーを取り替える時期になりました。

江戸時代の暦は太陰太陽暦といい、月の満ち欠けと太陽の動きを組み合わせたものでした。一か月は、三十日の「大の月」と二十九日の「小の月」がありました。何月が大の月になるかは毎年違いますし、閏月を入れて一年が十三か月になる年もありました。現代人からは不便に思えますが、月の欠け具合を見れば、何日かはすぐにわかりますから当時の人にとってはさほど不便でもありませんでした。

一年は、「立春」「冬至」など二十四節気を目安にしました。農作業には便利なものです。

時刻も、夜明けを「明け六つ」、日暮れを「暮れ六つ」とし、その間を六等分して数えました。これでは季節によって、「一刻」の長さが違います。しかしこれも、太陽の位置でおおよその時刻はわかりましたから、常に時計を見なければ時刻がわからない現代人に比べ、不便かどうかは一概には言えません。

 

江戸時代の人々はすべて自然の動きに合わせて生活をしていたのです。時間に追いかけられているような現代に比べ、精神衛生上では、ずっと人間らしい暮らしだったのでしょう。

 

暖房

江戸時代、寒い冬の暖房は火鉢と炬燵くらいでした。さぞ寒かったろうと思われるでしょうが、木の柱と漆喰の壁は断熱性に優れ、畳は下からの冷えを防いでくれたのです。

農家では、囲炉裏が普通でした。囲炉裏は暖房のほかに、調理もでき、夜は照明にもなるすぐれたものです。囲炉裏の上にやぐらを乗せ、布団を掛けたのが炬燵の始まり。江戸時代になるころから使われ始めたといわれます。

燃料として炭は重宝でした。火力が強く、煙を出さない炭は、江戸時代に普及しました。産地の集荷業者から、都市の問屋、仲買、小売りを通して消費者に届きました。幕末のころ、江戸では年間二百万俵を超える炭が使われていました。炭の粉をフノリで固めた炭団も、廉価な燃料として庶民に喜ばれました。

現在のコンクリートの建物は、冷暖房とも木造に比べ意外に大きなエネルギーが要ります。

 

また、江戸時代の炭焼きは、一年間に持ち山の三十分の一しか木を切らず、後に植林しました。三十年たつと、木が育ってまた炭が焼けるからです。自然の資源を長く使い続ける知恵があったのです。